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スイスアルプス博物館(SAM)の誕生と移管

日本人のスイスへの憧れの原動力となった、日本人登山家の足跡

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[スイスアルプス博物館]Swiss Alpine Museum(SAM)は、1990年の誕生時からすでに日本で一番小さいミュージアムと呼ばれ、 2000年に長野県大町の山岳博物館に所蔵品を移管して閉鎖した、きわめて短命かつユニークな博物館です。

そのハコとしての存在は、バブル崩壊とともに、文字通り泡と消えました。バブル時代のメセナ活動の一環では、よく見られた現象の一つと言えるでしょう そのスポンサーは、スイス三大銀行のひとつであるクレディ・スイス。

クレディ・スイス銀行は、伝統的にスイス政府観光局の海外支局をバックアップし、そのオフィスは、 つねに隣り合わせで設置されており、1990年当時は、自社の名前をつけた赤坂CSタワーにあり、広々としたオフィススペースを誇っていたのです。 


隣り合わせたスイス政府観光局では、1987年に、「スイス観光200年祭」を、全世界にキャンペーンしていました。 モンブランが、スイス人(ジュネーブ人)のソシュールによって登頂された1787年から数えて200年というわけです。

当時、スイスは日本人の憧れのデスティネーションとして、常に人気の最上位を占めていました。 しかしスイス観光の200年の歴史の中で、日本人のスイス観光の歴史は、1964年の渡航自由化から数えてたったの23年。 それなのにどうして、つねに上位を誇ることが出来たのでしょうか?

その答えは、それより以前にあるに違いない!という発想が、スイスアルプス博物館設立の原点です。 第一次世界大戦から、第二次世界大戦の間に、日本からヨーロッパに遊学した一部の上流階級の子弟が持ち返った、 平和かつ民主的スイスなイメージが、その後の日本の教育に大きく影響を及ぼしたのではないか、と推測されたのです。 彼らは揃って、達者な登山家であり、また帰国後は、日本の経済界、教育界にも大きな影響を与えた人物たちでした。

  発足したスイスアルプス博物館の、目的、展示の主な内容は次の通りです。

I)今世紀、スイスアルプスを舞台に達成された日本人登山家による偉業を長く記録  にとどめ、その内容を一般に公開展示すること。
II)スイスアルプスを科学的、人文的な側面から紹介すること。
  その展示品の中には、今井通子氏らが、アイガー北壁にジャパンルートを開いた時の写真やポスター、 故長谷川恒男氏の登山靴、槙有恒氏のピッケルなど、著名な日本人登山家から寄贈された登山用具をはじめ、地元グリンデルワルトから贈られた、 ミッテレギ稜の固定ザイル、秩父宮の手になる、山案内人の手帳の書き込みなど、 貴重なものが多く含まれています。
>>>展示品リスト


スイスアルプス博物館は、この種の博物館としては日本で最初の試みでした。登山史のみでなく、高山植物、鉄道、氷河、 ハイキングなどを含め、アルプス文化にかかわる多彩な話し合いの場となることを第三の目的としていたのです。

しかし、このミニミュージアムは、クレディ・スイスとスイス政府観光局が別のロケーションに居を構えるようになって、 一気に閉鎖の方向に進み、推進力であった鈴木光子の定年退職をもって、終焉を迎えることになりました。

幸いに、長野県の大町山岳博物館に移管が決まり、一部の展示物は提供者に返却、あとはその了解のもとに、 2000年現地で引き渡式が行われ、新スタートを切りました。

日本人登山家による、主なスイスアルプス登頂の年譜

*スイス山域主体だが一部にフランス、イタリア、ドイツ地域を含む
*事項・人物とも主なもののみ
年月日 名前 山とルート
1867年
(慶応3年)
栗本鋤雲(外国奉行) ベルナー・オーバーラント周遊
徳川昭武ほか モン・スニ峠(フランス・イタリア)
1872年
(明治5年)
中井 弘(外交官) スイス周遊
1873年
(明治6年)
岩倉具視ほか
(岩倉米欧視察団)
ベルナー・オーバーラント周遊
1882年
(明治15年)
原田豊吉(地質学) アルプス周遊
1885年頃
(明治18年頃)
高島北海(画家) アルプス周遊
1887年
(明治20年)
田中阿歌麿(湖沼学) ピッツォ・チェントラーレ登山
1898年
(明治31年)
山崎直方(地理学) アルプス氷河調査
1900年
(明治33年)
白井光太郎(植物学) アルプス植物調査
1904年
(明治37年)
吉田 博(画家) ツェルマット周辺ほか
1904年
(明治37年)
中目 覚(地理学) リギ山、フルカ峠など
1910年
(明治43年)
加賀正太郎 ユングフラウ登頂とアレッチュ氷河
1911年
(明治44年)
丸山晩霞(画家) アルプス周遊 スケッチ
1911年
(明治44年)
鹿子木員信
(哲学)
ベルナー・オーバーラント周遊
1912年
(大正1年)
大関久五郎
(地理学)
ユングフラウ登頂?
1914年
(大正3年)
辻村伊助  ユングフラウ、メンヒ(共に1月)登頂
辻村伊助
近藤茂吉
グロース・シュレックホルン(7月)登頂
1920年
(大正9年)
辻村伊助 ベルナー・オーバーラントで登山
槇 智雄
槇 有恒
ヴェッターホルン、ユングフラウ、
メンヒ、フィンシュターアールホルン
グロース・シュレックホルンなど
1920〜
   1929年

(大正9〜
   昭和4年)
各務良幸 ノルレンからメンヒ、オーバー・
ガーベルホルン、マッターホルン
(ツムット稜)テッシュホルン〜
ドーム縦走、ダン・デラン〜マッタ
ーホルン縦走(一日で、1925)、
ヴァイスホルンほか。
マッターホルン北壁試登(1928)、
マッターホルンには各ルートから
16回以上登攀。
アイガー西稜から冬季登頂をめざ
したが山頂直下で断念(1929)
1921年
(大正10年)
日高信六郎 ユングフラウ登頂(1月)
日高信六郎 モン・ブラン登頂(8月)
槇 有恒 モンテ・ローザ、マッターホルン
アイガー東山稜初登攀
1923年
(大正12年)
麻生武治 マッターホルン(ツムット稜)
モンテ・ローザほか
鹿子木員信 ユングフラウ、アレッチュホルン
フィンスターアールホルンほか
1924年
(大正13年)
別宮貞俊 ユングフラウ、ヴェッターホルンほか
1925年〜
   1927年

(大正14年〜
   昭和2年)
松方三郎 ヴェッターホルン、ユングフラウ
グロース・シュレックホルン
シュトラールホルン
ダン・ブランシュ
ツィナル・ロートホルン
オーバーガーベルホルン
マッターホルン(ツムット稜・イタリア稜)
ピッツ・ベルニナ、ピッツ・パリュ
フランスのドーフィネ、シャモニの山
などを登頂
(同行:槙有恒,浦松佐美太郎,
麻生武治)
1926年
(大正15年)
秩父宮ほか ヴェッターホルン
フィンスターアールホルン
グロース・シュレックホルン
ツィナル・ロートホルン、
マッターホルン、モンテ・ローザほか
藤木九三 上記秩父宮の登山取材などで
マッターホルンほか
1927年
(昭和2年)
松方三郎
浦松佐美太郎 
アイガー・ヘルンリ稜下部初登攀、
フランスのラ・メイジュ、グレポンほか
1928年
(昭和3年)
浦松佐美太郎 ヴェッターホルン西山稜初登攀
のほかダン・ブランシュほか
1929年
(昭和4年)
各務良幸 モン・モディ南東壁初登攀
(カガミ・ルート)
1930年
(昭和5年)
国分貫一(勘兵衛) グロース・シュレックホルン
マッターホルン(ツムット稜〜イタリア稜)
ヴァイスホルンほか
1933年
(昭和8年)
磯野計三
井田 清
エンゲルヘルナー、ユングフラウ
アレッチュホルン、フィンスター
アールホルン、アイガー東山稜ほか
1936〜
   1937年

(昭和11〜
  昭和12年) 
藤島敏男  ヴェッターホルン、ブリュムリス
アルプホルン(伊藤秀五郎と)
グロース・フィッシャーホルン
フィンスターアールホルン
ツィナル・ロートホルン
マッターホルンほか
1938年
(昭和13年)
桑原武夫 フィンスターアールホルン
田口一郎・二郎  ノルレンからメンヒ
ダン・ブランシュ
(フィーアエーゼルス稜)
アイガー(東山稜)
マッターホルン(ツムット稜)
ダン・デラン、グロース・シュ
レックホルン北東壁初登攀
1943年
(昭和18年)
田口二郎 ブライトホルン(ツェルマット)
北壁ヤング尾根
オーバーガーベルホルン
ヴァイスホルン(シャリ稜)など
1944年
(昭和19年)
田口二郎 メンヒ北壁ラウパー・ルート第3登
ノルレンからメンヒとユングフラウ
東尾根(高木正孝と)
1945年
(昭和20年)
田口二郎
高木正孝
ダン・ブランシュ(フェルペクル稜)
マッターホルン(ツムット稜)
ヴェッターホルン北壁、
1951年
(昭和26年)
伊藤 愿 マッターホルン・ヘルンリ稜
単独登攀
1951年
(昭和32年)
今井友之助
川森左智子
マッターホルンほか
1962〜
   1987年

(昭和37〜
   62年)
近藤 等 アルプス全域で登山行動
1963年
(昭和38年)
芳野満彦
大倉大八
アイガー北壁試登
1965年
(昭和40年)
芳野満彦
渡部恒明
マッターホルン北壁
高田光政
渡部恒明
アイガー北壁1938年ルート
(渡部は転落死)
大倉大八
長久 実
ドリュ南西岩稜(ボナッティ稜)
加藤滝男
吉尾 弘ほか
ヴェッターホルン北壁
1966年
(昭和41年)
伊藤敏夫
石井重胤
伊佐忠義
グランド・ジョラス北壁
ウォーカー稜
1966年
(昭和41年)
高田光政 マッターホルン北壁
1967年
(昭和42年)
小西政継
遠藤二郎
星野隆男
マッターホルン北壁
冬季第3登
1967年
(昭和42年)
望月 忠
加藤三郎
枝倉 勉
ピッツォ・バディレ北東壁
1967年
(昭和42年)
今井通子
若山美子ほか
マッターホルン北壁
(日本女性初)
1969年
(昭和44年)
加藤滝男
加藤保男
今井通子ほか 
アイガー北壁直登
日本ルート
1969年
(昭和44年)
斎藤雅巳 グランド・ジョラス北壁
ウォーカー稜単独
藤岡健次郎
松井喜三雄
グランド・ジョラス(7月)
アイガー(8月)、マッターホルン
(8月)の3大北壁を1シーズンで登攀
1970年
(昭和45年)
森田 勝
岡部 勝
木村憲司ほか
アイガー北壁1938年ルート
冬季第2登
遠藤二郎
星野隆男
小川信之
深田良一
嶋村幸男
三羽 勝
アイガー北壁
ジョン・ハーリン・ルート第2登
中野 融ほか ピッツォ・バディレ北東壁
1972年
(昭和47年)
近藤 等 リスカム北東壁
1972年
(昭和47年)
伊藤礼蔵
小川信之
モン・ブラン ブルイヤール
赤い柱状岩稜冬季初登攀
加藤保男
中野 融
宮崎秀夫
神田泰夫
斎藤和英
グランド・ジョラス北壁
中央クーロワール初登攀(3月)
1974年
(昭和49年)
近藤 等 ピッツ・ベルニナ
ビアンコ・グラート
1976年
(昭和51年)
鴫 満則 モン・ブラン
ブレンヴァ・フェースで2本の
ルートを冬季単独初登攀。
1977年
(昭和52年)
長谷川恒男 マッターホルン北壁
1938年シュミット・ルート
冬季単独初登攀
1978年
(昭和53年)
今野和義
川村晴一
和田昌平
アイガー北壁(冬季第5登)と
マッターホルン北壁の冬季継続登攀
鴫 秋子
鴫 満則
マッターホルン北壁
冬季女性初登攀
長谷川恒男 アイガー北壁1938年ルート
冬季単独初登攀
1979年
(昭和54年)
長谷川恒男 グランド・ジョラス北壁
ウォーカー稜冬季単独初登攀 
1980年
(昭和55年)
鴫 満則 モン・ブラン
フレネイ中央岩稜
冬季単独初登攀
1982年
(昭和57年)
長尾妙子
鈴木恵滋
グランド・ジョラス
ウォーカー稜冬季女性初登攀
>>>スイスアルプス博物館展示品リスト


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