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『いとしのエラ』のモデル

エラ・マイヤールをご存知ですか?

エラ・マイヤールの顔写真
女性冒険写真家、ジャーナリスト、旅行家として、ヨーロッパではつとにその名を知られるエラ・マイヤールElla Maillartは、1903年のジュネーブ生まれ。 94才で、スイス西南部、標高2000mのシャンドランで没しました。 オリンピック代表となった程スポーツに堪能で、実際に自分自身で行動し、 叙述する姿勢は,エラの終生変らぬ身上でした。

すでに20代で、新生ソ連へ渡り、中央アジア、近東をめぐり、満州国の特派報告に続いて北京からカシミールまで8ヶ月に及ぶ苛酷な旅を断行。 その顛末を、 "Oasis interdites"に書き著しました(1937年)。 数々の写真撮影や著作、特派員報告を続けたエラは、第二次世界大戦終了後もスイスに帰らず、インドの賢者のもとで修行を続行。 その胸中には常に、命の意味は?何故我々は生まれたか?真実とは何か?があり、その探求が、『いとしのエラ』によって昇華される、 生涯の思想を形成したのでした。 

現在、エラが残した2万枚に上る白黒写真は、スイス・ローザンヌの、エリゼ美術館が所蔵しています。

                   >>>エラ・マイヤールの足跡(PDF)
                   >>>エラ・マイヤールの著作一覧(仏/英)
                   >>>エラ・マイヤールのホームページ(仏/英)  
日本語版発刊  『Chère Ella - Elégie pour Ella Maillart 』
『いとしのエラ〜
   エラ・マイヤールに捧げる挽歌』
『いとしのエラ』表紙
日本語版の表紙
『いとしのエラ』P34/35
P34/35
『いとしのエラ』裏表紙
裏表紙


ic024.gif(101 byte)  老人介護の極致、エラ最晩年の記録

エラとアンヌ
1995年、エラと同じシャンドラン村に住む作家のアンヌ・ドゥリアが、まるで運命に導かれる如く、最晩年のエラ・マイヤールの 身辺の世話をはじめます。

その顛末と介護の2年間を、美しい詩文で綴ったのが 『いとしのエラ』。 その内容と、エラ自身の写真は、本書をご覧いただきたいと思います。 (写真左:エラ・マイヤール 右:アンヌ・ドゥリア)

『いとしのエラ』の注文は、最寄りの書店、またはオフィス・ロマンディーへどうぞ。
>>>書籍データは
■著者アンヌ・ドゥリア Anne Deriazについて
1939年スイス西部のイヴェルドン生まれ。 曾祖父は、1840年代に活躍した、スイスの写真家の草分け的存在。 ジュネーブ大学文学心理学科卒業。高校教師を経て、心身障害児の学校を経営、のちフリージャーナリスト. 併行して翻訳、文筆業にいそしみ、ジョルジュ。ニコル賞などを受ける。 1995 - 2005年シャンドラン在。現在ジュネーブ在住。

ic024.gif(101 byte)  10年がかりの自費翻訳出版

エラと少女
原作の出版2年目にあたる西暦2000年、スイスのリゾート滞在中にふと買い求めたのが,10年に及ぶ翻訳出版作業のきっかけ。

10年前といえば、日本では介護保険法が成立。はじめて介護という営みが国費で賄われるという新時代を迎えて、 それまで介護は家族がするもの、その苦労は内に秘めるべきもの、とされて来た暗黙の社会通念は、一気に外にはじけ、楽しい介護日記、 健気な介護の姿などがもてはやされるようになりました。

この本のように、見方によっては、小煩い老人による命令的な介護の日常を描いたこの本は、 こうした理想と逆行する、見たくない現実だったのか、出版を断って来た各社の理由は、「愉快なスイスのおばあちゃんを介護した楽しげな日記」 なら出版しますとか、売れる見込みがない、というものばかりでした。

それでは、表現能力が衰えた介護される側の人間の言動は、この世では認知されないのか?こんな疑問が頭をもたげ、逆にこの本を翻訳して、 自費出版するという意図は確立されていきました。

ic024.gif(101 byte)  駐日スイス大使も献辞を寄せて

花のイメージ写真
エラ・マイヤールは、旅する作家として、同時代人のブレーズ・サンドラール(Blaise Cendrars 1886-1961)や、 ニコラ・ブーヴィエ(1929-1998)と並び称されます。同国人として親交もあり、影響し合いました。

特にブーヴィエは日本にも住んで、興味深い著作を残しており、日本とスイスを繋ぐ数少ない作家です。 文学に造詣の深い、現駐日スイス大使は、エラ・マイヤールをはじめて日本に紹介する『いとしのエラ』の発刊に深い興味を寄せ、 自ら「献辞」を寄稿されました。

「アンヌ・ドゥリアの本の中に流れる、師と弟子との人間的な結びつき、加齢が生む知恵に対する尊敬、美しいものに対する感受性、 そして人生が与える教訓への畏敬の態度は、日本の読者の共感を呼ぶに違いない」という格調高い文章は、すでに本著の核心に触れる名文です。

日本での講演風景  著者と共に日本講演

出版に当たって、スイス大使が献辞を寄せ、またスイスの文化財団が助成してくれたこの発刊は、著者を日本への招待し、 講演会を行うという、予想外の発展を遂げました。

講演は、著者のアンヌ・ドゥリアが美しいフランス語で朗読し、 訳者の鈴木光子が通訳するという形で、横浜、東京、神戸で前後3回行われました。         

ic024.gif(101 byte)  「いとしのエラ」紹介記事

♣ 毎日新聞
2009年4月19日朝刊 「女性冒険写真家の最晩年」
>>>内容は
♣ Grüezi
2009年春号 『いとしのエラ - エラ・マイヤールに捧げる挽歌』
>>>内容は
♣ Franc-Parler
2009年4月号『いとしのエラ - エラ・マイヤールに捧げる挽歌』
>>>内容は


永遠のエラ


ic024.gif(101 byte)  シャンドランをベースに続けられた活動

ネルーとエラ
インドでの修行を終え、スイスに帰ったエラは、アルプス山中の標高2000m、シャンドラン村に建てた、 「アチャラ荘」に落ち着きます。

しかし冒険心は衰えを見せず、休むことなく、講演や冒険旅行に励みました。 インドへは毎年のように出掛け、また渡航が解禁になったばかりのネパールにも足を踏み入れています。 くわしくは>>>エラの足跡をご覧ください。

写真上:1957年、当時のインドの首相だったネルーと共に。右端は、旧インド提督のマウントバッテン卿夫人。

ic024.gif(101 byte)  没後の刊行物も続々と

1934年頃のエラ
エラ自身の著作の復刻版に加え、エラ自身書簡集なども次々にまとめられており、2009年秋には、1934年にエラが『プチパリジャン』紙に、 11回に亘って特派員報告した、『満州国便り』も発刊される予定です。

写真左:1934年頃のエラ 

エラ書簡集
エラ書簡集
エラ名言集
エラ名言集
インタヴューヴィデオ
インタヴューヴィデオ

ic024.gif(101 byte)  何と70年前の日本語訳もついに発掘!

70年前の日本語訳
エラ・マイヤールが1936年に著わした、『Oasis interdites』は、 すでに1938年、『婦人記者の大陸潜入記』の名で、英語版から日本語版に翻訳されています。 訳者は、マキャベリの専門家として知られる多賀善彦で、大阪の創元社から定価貳圓で発売されています。

いままで、図書館でしか見られなかったこの本を、このほど近郊の古本屋から2冊を入手しました。旧仮名遣いではありますが、 当時の詳細な地図や叙述は、前項の『満州国便り』とともに、日本の近代史上の貴重な資料となるやもしれません。

ic024.gif(101 byte)  エラ・マイヤール記念館

エラ・マイヤール記念館
エラ・マイヤールが半世紀近くも住んだシャンドラン村の、旧村の中央部に小さな記念館が作られています。 旧聖バルブ礼拝堂を使ったミニ展示館です。

エラの写真や日用品、講演の資料などが、こじんまりと展示されています。 開館時間については、シャンドラン村の観光局にご確認ください。

Chandolin Tourist Office
Tel +41 (0) 27 475 18 38  Fax +41 (0) 27 475 46 60
chandolin@.jpg(4120 byte) vsinfo.ch      www.chandolin.ch

ic024.gif(101 byte)  エラ・マイヤール友の会

Association Les Amis d'Ella Maillart
エラ・マイヤール友の会


エラ・マイヤールを敬愛する人たちを中心とする友の会が作られており、毎年総会と講演会を開き、 またエラ・マイヤールの版権の管理などを続けています。
入会希望の方は、info@.jpg(4120 byte) ellamaillart.chへ(英語またはフランス語)。

ic024.gif(101 byte)  アニヴィエの谷とシャンドラン村

Val d'Anniviers and Chandolin

カルヴェールの丘
アニヴィエの谷は、ヴァレー地方の山深く分け入る沢山の谷のひとつで、ツェルマットへ行くマッターの谷の、丁度西の裏側にあたる、 全長30キロほどの深い渓谷です。 

アニヴィエの谷からは、マッターホルンが西北の方角から眺められ、ツェルマットから見るのとは全く形が違って、古来神の山として崇められてきました。 

谷の入口のスイス国鉄駅は、シエール(Sierre)で、ここから谷の内部へ行くには郵便バスを利用します。シャンドランは、このバス路線の終点です。 標高2000メートル、人が常住する場所としてはスイスでも稀な高さですが、つい最近まで、冬は完全に閉鎖されていました。

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ヴィソワからヘアピンカーブでサンリュックへ登り、そのまま北に向かった道路は、ここシャンドランでおしまい。 あとは手付かずの自然と植物体系が残る山道と、目もくらむような断崖に阻まれます。直下にシエールの村を遠望する地点は カルヴェールの丘と呼ばれ、2つの十字架がたつ霊地と考えられています。
>>>アニヴィエの谷の詳細(PDF)



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